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2017年5月30日

倉敷の土蔵


Dozo (earthen storehouses) in Kurashiki, Okayama

倉敷を訪れた。

倉敷には誰もが知る美観地区というのがある。倉敷川べり、大原美術館のあるあたりだ。古い造りの町家・土蔵群が残り、それが飲食店や雑貨屋の店舗として利用されている。古い建物がまとまって残っているのは、かつて港町だったからだ。倉敷川をつたって高梁川、瀬戸内海へと出ることができた。

ここの土蔵は非常に大きな特徴を持っているのだ。


上図は美観地区外の商家の建物だ。一番手前が土蔵、ほかは土塀と塗屋造の主屋だが、道路に面してこのような意匠を見せている。いずれも腰までを焼杉板貼りとし、腰から上になまこ壁を設けている。

焼杉板はごく美しく焼かれている。他にたとえようのない黒光りだ。なまこ壁を見ると、土蔵は芋目地、土塀と主屋は四半目地となっている。いずれも腰まわりに加えて、四隅を登るように瓦を貼っている。また主屋、白壁の中ほどに一段水切りを設けており、その上にも一巻き貼ってある。これを「腹巻」という倉敷市HPより)。このなまこ壁の設け方が倉敷の土蔵の最大の特徴だ。



土蔵の窓の部分はこうなっている。窓には枠や土扉を設けず、庇も簡単なかたちだが、そのかわりにこのように瓦を貼っている。庇に跳ね返った雨を防ぐためなのだろう、愛嬌のある造作だ。

今回は倉敷の中心部から玉島、児島まで足を伸ばしたが、いずれもこの様式の土蔵が建っていた。またその足で瀬戸内海対岸、高松を訪れたところ土蔵の様式は大きく異なっていた。


岡山県内では高梁のあたり、津山のあたりにも、倉敷と近い様式の土蔵が分布しているらしい(未見)。さらに瀬戸内海側に目を転じると、塩飽諸島・本島に残るという「夫婦蔵」も明らかに同じ様式を持っている。また児島から高松へ向かう道中、坂出あたりまでには倉敷と同じ様式の土蔵があるのを見た。

なお塩飽諸島には船大工に端を発する大工集団がいるという。彼らが造り出した様式が備讃瀬戸を席巻し、徐々に内陸に浸透して行ったものか。

倉敷や伊豆下田を見るにつけ思う。なまこ壁の土蔵は港町のものだ。水運に乗って伝播する。


参考文献
上野時生編(1983)『四国の民家・建築家の青春賦』日本建築学会四国支部民家研究調査委員会

2017年1月1日

あけましておめでとうございます


Happy New Year

信州諏訪

昨春に訪ねた長野県諏訪地方の土蔵。諏訪には驚くほど土蔵が多い。妻面、丸く出張った部分は当地で「丑鼻」うしばなという。これには家紋や家名、水や龍などの草書一字(火伏せだ)、ほか縁起の良い図案を鏝絵で描いたりする。腰にはなまこ壁を造るのも多い。絢爛さを競うかのようだ。それもそのはず、ここにはかつて伊豆の長八の孫弟子にあたる方がいたのである。小川天香氏といい、茅野駅前に記念館が建っている。

しかしここでは絢爛なものでなく、荒壁のままの古そうな土蔵を選んで描いた。窓回りなどは諏訪一帯に共通する造形だが、問題は丑鼻、「*」のようなマークがでかでかと刻まれているのが謎だ。離れた場所でも同じ例を見たので特定の家紋家印というわけではないと思う。単に火伏せの「水」字を簡略化したものか、それともいつか鏝絵を描く時のための見当か、あるいは壁を荒壁のままにする場合のジンクスだったりするのか?


という昨年最大の土蔵ミステリーを年賀状に託した。

2016年12月11日

佐世保の土蔵


Dozo (earthen storehouses) in Sasebo, Nagasaki

11月に佐世保を訪れた。

佐世保の市街地は海に沿って平たく延びている。これは狭い浦辺を埋め立てたものだ。街の後ろには常に崖がはだかり、また街の中にはかつての島が取り残されている。その間を縫ってアーケードが設けられているのだが、これは町7つ分の長さを誇るものである。街の後ろには起伏にそって無数の住宅が建つ。岩を削り石垣を積みコンクリで固める。立体的な路地と階段がはりめぐっている。上り詰めると港が手に取るように見える。

港はかつての軍港、いまは自衛隊と米軍の港だが、離島とを結ぶ旅客船も多く発着する。私はその日漫画家クリハラタカシ氏の取材に同行し池島の炭鉱を訪ねたのち、水路にて佐世保へ入ったのだ(クリハラ氏のレポートはデイリーポータルZに掲載されている)


魅力満点の佐世保であったが土蔵はちっとも見つからなかった。土蔵が盛んでない土地柄なのかもしれない。そもそも九州一帯に、漆喰で塗り籠めた町家はよくあるのだが、主屋とは別に建てられた土蔵というのをあまり見受けない感じもする。

私は土蔵を求めて街道を歩いた。佐世保より東に3駅の早岐はいきというところでやっと会心の土蔵を発見した(上図)。早岐は佐世保市内ではあるが瀬戸沿いの静かな港町で、目の前には針尾はりお島が迫っている。鉤の手のある目抜き通りに古い町家が並び、その裏手の運河のような川に面してこれが建っていた。

このたたずまいをご覧頂きたい。鉢巻は薄く、窓には鉄扉がはまり、また窓の庇に瓦が差し掛けてあるあたりは熊本や鳥栖と共通する造り方だ。鉄扉の蝶番のかたちに窓枠が切り欠かれているのがよい。装飾の少ないぶん量感がまさり、壁は風雨により下から灰味がかる。九州の土蔵によく見られる風合いだ。
好ましく堅牢な印象。瓦は新しく軽いが、昔はもっと重厚なのが葺かれていたに違いない。


《写真コーナー》

九十九島くじゅうくしまの階段

この立体感

夜の自衛艦

佐世保の古いマンホールのふた

1枚だけ見つけた右書きの防火栓(消火栓)のふた

2016年5月20日

諏訪の建てぐるみ


Tategurumi in Suwa district, Nagano

諏訪には「建てぐるみ」という土蔵の建て方がある。主屋が土蔵を取り込むように建てられるもので、寒さへの備えや物の出し入れの便宜、屋敷地の有効活用という目的があるそうで、明治から普及した様式だということだ。

今和次郎氏の『草屋根』などに記述があり、1つ2つでも見れればよいと思い茅野から諏訪大社上社、上諏訪温泉のあたりまで歩いたところ、思いがけず無数の建てぐるみが残っていた。そもそも建てぐるみに限らず土蔵がやたらに多い。

建てぐるみには色々なかたちがあった。上図、上段左の妻入りのが古典的なもので、破風板を拝みで交叉させて棟飾りとする。上段右は新しい造り。中段と下段左は入母屋の例、中段は妻側、下段左は平側に土蔵の妻面が表れている。面白いのは下段右で、土蔵部分のかたちが不明瞭に拡がっており、窓の造形に土蔵らしさを留めている。この類には他にもいくつか面白いバリエーションがあった。

また諏訪の土蔵には装飾を凝らしたのが多い。拝みに丸く突出した部分を丑鼻うしばなといい、ここには家名や家紋、家印を描くか、防火のまじないで「龍」や「水」と書いたり、大黒様や鶴や亀などを色とりどり鏝絵で描いたりする。鉢巻や窓回りには複雑な造形を施し、白黒で塗り分ける。腰は板張りにするのが多いがいくつかナマコ壁にしたのがあった。

数多ある建てぐるみの中で最も先鋭的なのがこれだ。
 
古い町の一角にあったもので、一見ありふれたハウスメーカーの住宅だが、手前の小さい窓が諏訪の土蔵の窓の造りになっている。よもやこの中に土蔵が入っているわけではないと思うが(入っていたら私はうれしいが)、土蔵/建てぐるみを建てるということが今なおステータスになっているのかもしれない。土蔵ファンは諏訪へ急げ。

似た様式に秋田の内蔵うちぐらがあるが、これは土蔵を主屋背後に完全に覆い隠すように造るものだ。必ず土蔵の一部を露出させる建てぐるみと、どのような意識の相違があるのだろうか?

参考文献:
『原村の土蔵を彩る鏝絵』(長野県諏訪郡原村教育委員会、2014年)
茅野市にある鏝絵天香館にて購入した。



2016年5月12日

名古屋の土蔵


Dozo (earthen storehouses) in Nagoya

黄金週間は名古屋から奈良県の宇陀まで行った。
名古屋でよい土蔵をいくつか採集したので報告する。

名古屋は大都会だ。
あらかたビル街で、かろうじて通りの名前に古い町の面影がある。
しかし市内のいくつかの地点に古い建物を求めることができる。そのひとつが四間道しけみち、今の住所では西区那古野1丁目界隈になるが、名古屋駅至近に城下町の町並みが奇跡的に残っている。また四間道と直交する円頓寺えんどうじ商店街にも趣ある建物が見られる。

四間道は堀川の西側に沿うて通る道で、桜橋から景雲橋の間あたりに古い建物が集中して残る。堀川側に土蔵が並び、反対側に町家が軒を連ねているが、土蔵は水害をおそれてか高い石垣に載っている。これが名古屋の土蔵のかたちで、屋根のやや急な勾配、刻み袖瓦、鳥衾瓦、それと薄い鉢巻が特徴的だった。

窓には庇を付ける。1階の窓の庇は平側いっぱいに取り付けている。
四間道では木材そのままの造りが多いが、塗り籠めて持ち送りに雲形を施したのもあった。土扉は分厚いが掛子塗としない。この土蔵の屋根は本瓦葺で、影盛の背後に漆喰で2、3巻き追加しているのは珍しい感じがする。


面白いのは土蔵と土蔵の間だ。石垣の具合や庇の食い違いからすると、もとは別箇だったのをつなげたように思える。軒の波形や開口部の木瓜形のナマコが大変愛らしい。全般的に漆喰の造形は凝ったのが多く、所々よいかたちがある。とくに前包みを漆喰と瓦で市松につくるのが土蔵に限らず多い。

名古屋から名鉄で15分ほど、緑区有松ありまつというところにも古い建物がよく残っている。ここは宿場町で、絞り染めが名産。本うだつのある立派な商家の合間にこのような土蔵が建っている。2階の窓を高く小さく開けるのが地域的特色であるようだ。1階の窓には塗籠の庇が付き、持ち送りは雲形の造形。持ち送りを雲形に塗り籠めるのは京都や大阪、奈良に顕著なもので、関西寄りの造り方。腰はナマコ壁で、黒漆喰仕上げ。

四間道、有松の他に熱田、車道〜代官町、中小田井、守山を歩いた。
喫茶店のモーニングが美味かった。

2016年4月19日

熊本へ


To Kumamoto


熊本の古い建物を見て歩いたことがある。

ずいぶん特徴的な造り方があり、柱形を撫で付けた大壁の町家とか、八角形につくるナマコ壁とか、銅板でくるんだ窓の扉とか、折れ釘の根元に花形の金具をかませるのとか。石橋や石のほこらなどが多いのも特色。城下町であり、新町と古町という2つの旧市街がある。その間を市電が走っている。
熊本から八代、柳川、対岸の島原などを旅行した。それぞれに変化のある良い建物があった。落ち着けばきっとまた行こうと思っている。

上のカットは今年の寒中見舞いに使ったもので
八代、日奈久温泉の古い建物の壁。

2015年4月24日

肥後の八角ナマコ


Vernacular façade tiling in Kumamoto

先々月のことになるが
 飛行機で熊本へ行った。
すばらしいものを沢山見てきたが
 今日はひとまず壁の話。


なまこ壁という様式がある。
平たい瓦を土壁に貼りつめて、その目地に
漆喰をナマコ形に盛りつける
美しい防火防水技術だ。

第1図 豆州三島

上図は伊豆の三島の例だが、このように
 瓦を隅立てにする造り方が全国的に多い。
 地域によってか造り方にバリエーションがあり、
ナマコ部分をふくらまして七宝つなぎにしたものや
六角形の瓦を使ったのも見たことがある。

第2図 肥後熊本

して熊本では
ナマコ壁をこういう風に造るのである。
八角形!八角形なのだ。

中に入っているのはおそらく正方形の瓦だが、
四隅をひとつひとつしっかり塗り込めている。
遠目にも麗しいこの造り方は
肥後に多く行われているようだ。

なぜこのような形になったのだろうか?
瓦を留める釘の保護か(にしては厳重だ)、
あるいはよっぽど雨が降るとか、
考えながらさまよっていたら
宇土半島のとある港町で
答えとおぼしきものを見つけた。

第3図 肥後松合

八代海に面する松合という古い港町に
上図の見事な壁はあった。
第2図に掲げた熊本市街の例と比べて
造りが立体的になっている。
それは瓦が、平たい瓦でなく
屋根に葺くような反りのあるものだからだ。

第4図

成立の過程はおそらくこうだ。
反った瓦を互い違いに並べると、
上下に隙間ができてしまう(上図1)。
なのでその隙間を埋める。隙間の形状から、
埋めた部分は円錐形になる(上図2)。
そののち、他のナマコ壁と同じように、
目地を盛りつける(上図3)。

この場合、八角形の造形は順当だ。
そしてこの反った瓦を使うものが、
第2図の平たい瓦を使うものよりも
より古い造り方なのではないだろうか。

反った瓦の時代のかたちが様式化して、
ゆくゆく平たい瓦を使うようになっても
八角形だけが残っているというわけだ(上図3→4)。


このあと立ち寄った筑後の柳川では
ナマコ壁はあったが造り方は全然ちがった。
九州の奥行きを垣間みた。

2015年1月8日

あけましておめでとうございます


Happy new year


盛岡の土蔵と絵暦

昨夏たずねて感動した盛岡がテーマ。
上部には盛岡で見た美しい土蔵を描いた。
下部には盛岡絵暦の絵文字で発行年月日を記してある。
ついたてにはサフォークをあしらってございます。

2014年11月20日

大阪


職場の先輩と
申し合わせて
 大阪観光へ行った。

太陽の塔

土蔵

PLの塔

土蔵

場末の店で
食べたお好み焼きが
一番美味かった。

配布したとされる「しおり」

しおりの中身はこちら

2014年11月5日

北東北

土蔵をたずねて。

奥州盛岡

羽州秋田

なんとも魅力ある相違だ!

盛岡の土蔵は拝みに丸い出っ張りを付けるのが特徴で、
その出っ張りに家印を描いたりする場合もある。
あとは四隅を登るナマコ壁、
黒漆喰による塗り分けなどにも特色があった。

秋田の土蔵は広く張り出した置屋根を方杖で支えるのが特徴だが、
その方杖を2本の特殊なオレクギの類で受けている。
オレクギが2本なのでツブも当然2個となる。
こんな造り方は寡聞にして知らなかった。

なお町家を見ると、
盛岡は平入り、秋田は妻入り。
また行きます。

2014年6月28日

旅づく

休み減り
 なお旅づく。

信州長野

2014年1月25日

あけましておめでとうございます

 八戸の土蔵と八幡馬

八戸という地名は馬にまつわる。
八戸で見た南部藩様式を示す土蔵に
八戸の郷土玩具をあしらった
めでたい図案だ。

2013年4月8日

群馬県高崎市

 この1年ですっかり日本の民家ファンになってしまった私は、この冬から春にかけて諸地方をたずねて歩いた。3月には駆け足ではあったが念願の関西行を果たし、大阪や京都はもとより淡路島や琵琶湖畔の美しい風景を垣間みることができた。夜行バスは経済的でよいけれども本当に眠れないものだ。とにかく大量の建物の外観を取材してきたのでちょっとご紹介したい。
 昨年11月に群馬県へ行ってきた。それというのも、県北部の沼田市に残っていた古い銀行建築が移築保存されることになり、解体の前に見学会を開くというのを知ったからである(「日刊旧建築」さんより)。折角なので高崎、前橋と見て沼田へ向かうことにした。ここでは高崎市で見た建物をご紹介したい。上図のかっこいい紋章は大正9年にできた高崎市のそれである。
市街地地図(大正8年「高崎市全図」より作成)
 高崎は城下町であり、また中山道と三国街道が分岐する主要な宿場町であって、前橋に移るまでは県庁所在地だったほどの都会なのだが、素晴らしいことに昔のままの地名や地割が今も残っている。城下町らしく白銀町鞘町鍛冶町といった職人町があり、中でも製糸業の街だからなのか紺屋町が3つもある。市中を南から西へ中山道が通り(上図破線)、田町は「お江戸見たけりゃ高崎田町」とまで繁盛したようだ。連雀町の連雀というのは行商をする人が荷物をくくりつけて背負うためのフレームのことで、また中山道の繁盛を示しているようである。東京は三鷹にある上連雀・下連雀というのも由来は同じだ。本町から北に分かれる破線は三国街道であり、北上して新潟県を通り日本海まで行く。鞘町から中紺屋町寄合町新紺屋町を貫く「中央銀座通り」はアーケード商店街ファンならば見逃せないだろう。とにかくこの美しい地名を見て下さい。
 高崎市中心部には古い木造の建物がところどころに残っている。町家造りが多く、蔵を連ねたのもたくさん残っている。店舗部分は古いのだと切妻平入、次に寄棟という感じで、アールデコ風など看板建築式に改造されたのもあった。いずれも瓦葺きが立派である。田町や本町などではマンションに挟まれたりして歯抜けになっているが、ひとり「山源漆器店」が古格をとどめている。明治15年ごろに建った黒漆喰の店蔵である。
 さりながら、古色が豊かなのはむしろ蔵の方かもしれない。どこでもそうだが店舗や住宅が改築されても土蔵はそのままという例が多かったのである。上図は北通町、下図は嘉多町にあったものだが、高崎の土蔵は概ねこのようで、背が高くまた屋根の勾配が大きく、鉢巻を大きく斜めに軒いっぱいまで塗り込めて、屋根には立派に箱棟や影盛などを設けている。鬼瓦には家紋か家名、棟巴には家印がそれぞれ描かれているのも興味深かった。家紋や家印などは妻面のてっぺんに描く地方が多いが、ここではそのかわりに折れ釘を一本二本打ってあったりする。
 こちらは土蔵の機能を離れ、トタンで覆われて普通の窓が開けられているが、なかなか端正な姿を見せている。ここに挙げた建物はどちらも隣が更地になってしまったので、このように側面が現われているものである。櫛の歯が欠けるように町家が消えていくのだ。
 さて高崎駅から信越線に乗って西に2駅、碓氷川沿いに「少林山達磨寺」という古刹がある。階段を上り詰めた広い山内は紅葉の季節で何とも美しかった。あいにくの雨だったがご本堂には大小のだるまが積み上げられて目にも鮮やかだった。タウトが居を構えたというこのお寺で私は上図のステッカーを頂いてきた。北海道の人なら見たことがあるかもしれない。