2013年4月8日

群馬県高崎市

 この1年ですっかり日本の民家ファンになってしまった私は、この冬から春にかけて諸地方をたずねて歩いた。3月には駆け足ではあったが念願の関西行を果たし、大阪や京都はもとより淡路島や琵琶湖畔の美しい風景を垣間みることができた。夜行バスは経済的でよいけれども本当に眠れないものだ。とにかく大量の建物の外観を取材してきたのでちょっとご紹介したい。
 昨年11月に群馬県へ行ってきた。それというのも、県北部の沼田市に残っていた古い銀行建築が移築保存されることになり、解体の前に見学会を開くというのを知ったからである(「日刊旧建築」さんより)。折角なので高崎、前橋と見て沼田へ向かうことにした。ここでは高崎市で見た建物をご紹介したい。上図のかっこいい紋章は大正9年にできた高崎市のそれである。
市街地地図(大正8年「高崎市全図」より作成)
 高崎は城下町であり、また中山道と三国街道が分岐する主要な宿場町であって、前橋に移るまでは県庁所在地だったほどの都会なのだが、素晴らしいことに昔のままの地名や地割が今も残っている。城下町らしく白銀町鞘町鍛冶町といった職人町があり、中でも製糸業の街だからなのか紺屋町が3つもある。市中を南から西へ中山道が通り(上図破線)、田町は「お江戸見たけりゃ高崎田町」とまで繁盛したようだ。連雀町の連雀というのは行商をする人が荷物をくくりつけて背負うためのフレームのことで、また中山道の繁盛を示しているようである。東京は三鷹にある上連雀・下連雀というのも由来は同じだ。本町から北に分かれる破線は三国街道であり、北上して新潟県を通り日本海まで行く。鞘町から中紺屋町寄合町新紺屋町を貫く「中央銀座通り」はアーケード商店街ファンならば見逃せないだろう。とにかくこの美しい地名を見て下さい。
 高崎市中心部には古い木造の建物がところどころに残っている。町家造りが多く、蔵を連ねたのもたくさん残っている。店舗部分は古いのだと切妻平入、次に寄棟という感じで、アールデコ風など看板建築式に改造されたのもあった。いずれも瓦葺きが立派である。田町や本町などではマンションに挟まれたりして歯抜けになっているが、ひとり「山源漆器店」が古格をとどめている。明治15年ごろに建った黒漆喰の店蔵である。
 さりながら、古色が豊かなのはむしろ蔵の方かもしれない。どこでもそうだが店舗や住宅が改築されても土蔵はそのままという例が多かったのである。上図は北通町、下図は嘉多町にあったものだが、高崎の土蔵は概ねこのようで、背が高くまた屋根の勾配が大きく、鉢巻を大きく斜めに軒いっぱいまで塗り込めて、屋根には立派に箱棟や影盛などを設けている。鬼瓦には家紋か家名、棟巴には家印がそれぞれ描かれているのも興味深かった。家紋や家印などは妻面のてっぺんに描く地方が多いが、ここではそのかわりに折れ釘を一本二本打ってあったりする。
 こちらは土蔵の機能を離れ、トタンで覆われて普通の窓が開けられているが、なかなか端正な姿を見せている。ここに挙げた建物はどちらも隣が更地になってしまったので、このように側面が現われているものである。櫛の歯が欠けるように町家が消えていくのだ。
 さて高崎駅から信越線に乗って西に2駅、碓氷川沿いに「少林山達磨寺」という古刹がある。階段を上り詰めた広い山内は紅葉の季節で何とも美しかった。あいにくの雨だったがご本堂には大小のだるまが積み上げられて目にも鮮やかだった。タウトが居を構えたというこのお寺で私は上図のステッカーを頂いてきた。北海道の人なら見たことがあるかもしれない。